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尊厳と命を超えて

2009/03/12 (Thu)

階級あるところに差が存在する。
その差は例え物理的な差、金銭的な差であっても価値的な差に置き換えられることがある。
価値的な差があるところでは人間的尊厳が損なわれる。

簡単に言えば価値的な差は人の命に番付をするってことで、
そこでは尊厳なんてものはないということ。

よくありますよね。
「~するくらいなら死ぬ」みたいなこと。

さてアナタはどっちを選択しますか?
尊厳を失ってでも生きることを選びますか?
命を捨ててでも自分の道を歩みますか?

どっちにしろそこに善悪など存在しない。
善悪なんて後付だし、その時代、その地域、その人によって判断基準が異なるからね。
正義も同様。
つまり、その人に依る、その人の心に依るってことだ。

もちろん選択は二者択一でもない。
だからといって一者唯一でもない。
つまり根源的にたくさんの選択肢が存在する。
人の心はその人の数だけ存在するから当たり前だけどね。
ということは、もともと「差」っていうものは存在するのだ。

人は道を歩む。
そのライン上で他の人と交差することなんてわずかでしかない。
基本的にはすれ違う。

平等っていうのはよくない考えだ。
それは砂上の空論でしかない。

「差」があるってことを「等しく」認識できたら人はもっと交差する機会が多くなるんじゃないかな。

でもね、こうも思うんだよ。
人が人のために何かをして、それがすれ違いだったとしても別にいいんじゃないかな、と。
誰かが世話をやかないと、人の世ってのは成り立たないんだから。

まとめると、
尊厳か命か、が問題ではなく、どちらを選択したとしてもそれは間違っていなく、
その選択をした自分自身を見つめ続ければそれでいいと僕は思います。

人には差があり、そして、
人は自分を肯定するものである。
生きるということは自分を肯定することだ。
自分を否定することは死ぬということだ。

自分を肯定するためにはどのようにすればよいか?
少し数字で考えてみよう。
1という数字だけしか存在しないとすると1を肯定するにはどのようにすればよいか?
不可能。
11111111111111111
肯定があるところに否定が存在するのだ。
肯定も否定もないところに平等や永遠が存在するがそんなものはまやかしでしかない。
こうするとどうだろうか。
1234567890
234567890を否定すると1が肯定される。

つまり生きるということは他の人の否定、差別の上に成り立っているんだ。
その他の人というのはたいていの場合特定の誰かではない。
だからそれが自然と普段の行動に現れる。
人は差別をしたがる生き物。
そうしないと生きていけないんだ。

その差別をどの程度まで良しとするかが問題とされるのである。

別に難しいこと言ってるわけじゃないんだ。
それと、今回の記事は別段妄想ってわけでもない。
「差」は存在する。
「差」の連鎖が人の歴史。
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